2020年5月15日金曜日

翻訳者の訳語確定プロセスはブラックボックスか?

英語がある程度できる人も「例の詐欺講座」の餌食になっている

 浅野正憲氏の翻訳講座が「CV詐称」「トライアル共有」で翻訳者志望者に下駄を履かせてトライアルへの不正合格者を大量に出していて業界で大問題になっていることについては2/25のこちらの記事で書きました。冷静な人は「楽して誰でも稼げる話など存在しない」と気づくはずですが、「英語力が高くなくても翻訳できる方法とは何だろう」という興味の方が勝ってしまい、その「秘密」を知りたくて高額な受講料を払ってしまう人はいまだにいます。

楽して儲かる話に騙される人がいつの時代にも一定数いるのは分かるのですが、私が新たに問題視しているのは「英語がある程度できて、もう少し勉強すれば翻訳者になれそうだ」という層にも、「すんでのところで入会するところだった」という人や「実際に入会してしまって後悔している」人たちがいることです。

素晴らしい講師とカリキュラムを備えた老舗の翻訳学校は全国各地にいくらでもあるし、翻訳者になるための情報誌や参考書はAmazonを検索すればいくらでも売られていて、翻訳者を目指す人に向けた情報はいくらでも手に入ります。端から見れば、「ちゃんとした道を通れば遠からず翻訳者になれるのに」と思える人までもが餌食になっています。


翻訳者になるための「秘密」って何?

 前回の記事にも書きましたが、私も去年の秋、最初にあの講座の広告バナーを見たときには興味本位で一度、クリックしました。どんな内容なのか気になって、無料講座だけでももらってみようかと思いましたが、怪しい臭いがプンプンしていたので、メールアドレスを取られるだけでも不気味だと思い、やめておきました。

私のように翻訳者としてコンスタントに仕事を得ていても、「年収1千万円稼げる翻訳って何だろう」という興味が一瞬ちらついたのは事実です。

皮肉なことに、世の中の今のこの状況で、あの講座を出してきたのはまさに絶好のタイミングだと言えます。

1. 2016年秋にGoogle翻訳にニューラル翻訳が導入され機械翻訳の精度が格段に上がり、翻訳業界には全体的に単価の下落圧力が働いていて、優秀な翻訳者も単価交渉には苦労している。

2. 翻訳という作業は人の手で行っている作業なので一日に処理できる量には上限があり、高額の報酬を得ようとすれば単価を上げるか処理量を増やすしかない。

だから「年収1千万円稼げる翻訳って何?」と一瞬思ってしまいます。

さらに、「英語がある程度読めて書ける」という層は

3. 英語力にはある程度自信があるが、翻訳ができるほど通用するのか分からない。実際の仕事で分からないことが出てきたらどうすればいいのか分からない。

4. 翻訳者になろうと思っているが、翻訳会社にいくら応募してもトライアルに通らない。通らない理由が分からないので自分の弱点を知りたい。

5. TOEICや英検は持っているが、翻訳の実務経験がない。翻訳会社に応募しようと思っても未経験者は書類選考で落ちると聞いた。

などの葛藤を抱えており、これらの層に対しては「CVを添削します」「トライアル研究をします」という謳い文句には訴求力があります。

さらに、今このコロナ禍で仕事がなくなってしまった人も多く、そういう人の中で留学経験があったり英語に少し自信がある人があの広告を見れば

6. 翻訳学校に何年も通うような時間的・経済的余裕はないけれど、「40日で翻訳者になれる」方法があるというのならどんな方法なのか聞いてみたい

7. 仕事獲得までしっかりサポートしてもらえて安心だ

などと思ってしまっても無理はありません。

1、2のように「翻訳で年収1千万って相当無理しないと稼げないはずなのにそれができるってどういうことなんだろう」とバナーをクリックした層は、私のように「ああ、なんだ嘘か」と思ってページを閉じて終わりです。

しかし、翻訳者になりたいのにトライアルに通らなかった人たちや、「英語力がなくても翻訳者になれる『特別な方法』があるなら知りたい」と思ってしまう人の中には、冷静な判断ができずに入会してしまう人もいます。

敢えて私が改めて言う必要もないと思いますが、翻訳者になるための「秘密」などありません。英語がしっかり読めて(理解できて)、日本語でしっかり表現できれば翻訳者になれます。それ以上でもそれ以下でもありません。


翻訳の仕事は謎に包まれている?


 それが分からないほど多くの人が「秘密」を知りたいと思ってしまう理由は、翻訳という仕事が(多くの人たちにとって)謎に包まれている、もっと言えば翻訳者の頭の中の「訳語確定プロセス」がブラックボックスだからかもしれません。

ある原文が、正確に理解されて読みやすい日本語になっているかどうかは、英語が分かる人にしか分かりません。

日本語しか分からない人には、訳文としての日本語しか読めないので、成果物としての日本語がそれなりに読みやすくこなれていれば、「上手い翻訳だ」と思ってしまうかもしれません。

結局、翻訳の出来栄えの良しあしは英語の分かる人にしか分からず、「翻訳者として仕事ができるレベルに達しているか」の判断は、一般の人にはできないことになります。

しかし、日本語だけ読みやすくても、原文から逸脱しているものは翻訳ではありません。当然、クライアントからクレームが入りますし、翻訳料が支払われないこともあります。

昔、20年以上前に海外ミステリで「超訳」という分野が流行って、「直訳ではない読みやすさ」がもてはやされて大いに読まれました。私も読んだことがありますが、確かに日本語としてサラサラと読みやすいけれど、さっき出てきた話とどうもかみ合わない、と思って原書を買いに走ったこともあります。あの当時、そのような「たとえ原文を無視してでも読みやすい日本語を」という傾向が顕著だったのは、「翻訳ものは読みづらい」という読者共通の苦情があったからです。

その後、越前敏弥さん訳の「ダ・ヴィンチ・コード」(邦訳出版は2004年)のように「原文に忠実なのに読みやすい」という翻訳ものが次々と出てきて、「読みやすいだけで原文に忠実でない」超訳ブームは徐々に去っていきました。現在は「原文に忠実で、かつ読みやすい」は(出版翻訳/実務翻訳問わず)翻訳者に求められる水準としてスタンダードになっています。

ですから、翻訳という仕事は本来、「誰でもできる仕事」なはずはないんです。でも、翻訳ってどういうプロセスで行われているのか、翻訳者の思考プロセスが一般の人には明かされていないので、「その秘密を教えてあげますよ」などといういかがわしい講座が出現したのだと思います。

翻訳プロセスに秘密はない

 がっかりさせるようなことを言って申し訳ないですが、翻訳者の思考プロセスに秘密はありません。簡単な文章を訳すのは誰でも簡単ですし、複雑な文章を読む時には翻訳者も小一時間頭を悩ませます。

原文を読み解き、イメージを描いてから、それをもう一方の言語で表現し直す

という知的プロセスにどんな場面でも使える万能薬は存在しません。何でも載っている辞書もありませんし、どんな文脈にも当てはまる訳語がすべて載っている用語集サイトも存在しません。翻訳者はそれまで生きてきた中の読書経験や職業経験、もっと言えば人生経験のすべてを引き出しにして原文と向き合っています。

若い頃貿易事務をしていた私はそのころの経験が翻訳の仕事に役立ったこともありますし、英日の仕事で出てきた用語が日英の仕事に役立ったこともあります。


翻訳者の訳語確定プロセスを敢えて説明してみると
 では、参考になるか分かりませんが、翻訳者の訳語確定プロセスの一例として、私のやり方を説明してみます。

・まずはだいたい何の話なのか、大まかに掴む。全文を精読している時間がない時も、見出し文やあらすじを見て、何の話なのかを理解してからスタートする

・構文が複雑な時は、スラッシュを入れたり、<  >や [        ] などの記号を使いながら原文に印を入れて、どこからどこまでが何にかかっているのか、主語と述語はどれなのか、見失わないように読む。(これには基礎的な英文法力が必要です)

・英和辞典を見ても単語の意味が理解できない場合は英英辞典を引く。それでも分からない場合は英語の類語辞典を引く。それでも分からない場合は、英語版のWikipediaなどで調べる。英語でイメージをつかんだうえで、それに当てはまる日本語を自分で探す。

・構文が解析できて、単語の意味を全部調べても全体として何を言っているかつかめない場合は、背景知識から攻める。著者や企業のウェブサイトを調べ、図や写真があれば、それらの助けも得て原文に再度当たる。

・日本語のWikipediaに情報がない場合は英語版も当たる。書籍などで著者がSNSで発信している場合はそれらもチェックするとヒントがある場合もある。

・辞書やネットにない場合は本も使う。図書館にも行くし、本も買う。最近は電子書籍で瞬時に手に入る書籍も多いので便利(調べ物にはそれなりのコストもかかります)

・何の話か理解できて、英語は理解できたが、上手い日本語にならない場合、「類語辞典」や「コロケーション辞典」「てにをは辞典」などを使って日本語のバリエーションを増やす。

・全部翻訳できたら頭から全部読み直して推敲する。論理的におかしいところや引っ掛かりがないか、チェックする

 このように、秘密でも何でもないです。英語を理解して、内容が分かるように、日本語に置き換える、という作業の繰り返しです。

翻訳の面白さ

 それのどこが楽しいんだ、と思う人には翻訳者は向いていません。毎日8時間、人が書いたものを読んで日本語に直す。だったら自分が書いた方が早い、と思う人はライターになった方がいいです。

 自分とは違う思考に触れて、新しい情報に日々接し、英語と日本語という文法構造も文化的背景も全く違う2つの言語の間を行き来して、訳しづらい文を上手く別の言語に置き換えられた時には時々爽快感を得られる(こともある)、これが翻訳の醍醐味だと思います。難しい英文を訳せた時ほど得られる達成感と満足感があります。

いい学校はいくらでもあるし、独学も可能

 ちなみに私は若い頃は通訳者を目指していて、「インタースクール名古屋校」という通訳学校にずっと通っていました。TIMEやNewsweekのような時事教材も当時大量に読み込み、私のリーディング力の基礎はそのころ培われました。

通訳学校の知り合いから派遣の翻訳の仕事を紹介され、本格的に仕事として翻訳に取り組むようになりました。出産時に退社し、子供が生まれてからは自宅で翻訳のみを行っています。ですから、厳密な意味では翻訳学校に通ったことはありません。しかし、話された英語も書かれた英語も、訳すときに必要なアプローチは同じです。原文のメッセージを芯で捕らえてイメージ化してターゲット言語に移す、ということです。

後半はだいぶ専門的になってしまいましたが、少しでも翻訳者の頭の中を解説して、「ブラックボックス」の中身を明らかにしようと考えて、説明してみました。翻訳者という仕事に興味がある人の、少しでも参考になれば幸いです。

6 件のコメント:

  1. 翻訳の勉強をしています。「原文に忠実で読みやすい」ものを目指すという点、訳語確定プロセスの詳しい説明が大変参考になりました。母国語であるはずの日本語ですが、意味があいまいだったり、本来の意味と違うように使ったりしていることがあるので、翻訳は外国語の勉強をする以上に奥が深く魅力ある仕事ですね。

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    1. コメントありがとうございます。参考になったと言っていただけて大変嬉しいです。「原文に忠実」と「読みやすさ」は矛盾することが多いので、どちらかだけを優先させると「過度な直訳」「過度な意訳」になってしまいます。そのどちらにもならないように頭を悩ませるのが、この仕事の面白さかもしれませんね。

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  2. はじめまして。元翻訳コーディネーター、現在は海外在住で英日・西日翻訳をしています。何度も「そうだよね」と言いながら記事を拝読しました。翻訳プロセスに秘密はない、その通りだと思います。原文に忠実と読みやすさは永遠の課題ですよね。訳語を最終的に「これとこれでどっちにしようかな?!」と決めるときに、原文⇔読みやすさでせめぎ合いますね。私はファッション分野のお仕事がわりと多いので、そんなときは筆が走りまくっていますが(笑)。「翻訳者スタートガイド.net」も拝見しました。オンライン辞書の「翻訳訳語辞典」は恥ずかしながら知りませんでした。今後ぜひ使ってみようと思います。情報ありがとうございます。あと、翻訳支援ソフト (CATツール)のページで、memoQはTradosのようにライセンスが必要と書いてありましたが、こちらはMemsourceのようにエージェントから認証情報が送られてきますよ。機能はTrados Workbenchのほうがはるかに勝っていると思いますが、使いやすさはmemoQかなと個人的に思います。

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    1. Saekoさん、コメントありがとうございます。訳語のぎこちなさを避けるために自分なりの最善訳を出したつもりでも、いわゆる逐語訳でない場合は理解してもらえないことも多く、そういう時は切ないですね。自分なりにかみ砕いて解釈して良い訳が出来たときに「読みやすかったです」と言われると嬉しいです。とはいえ、読みやすさ重視で原文から離れてもいけないので、これまた悩みどころです。

      CATツールに関してはご指摘ありがとうございました。MemoQも認証情報をもらえるとは知りませんでした。早速記事を直しておきます。ありがとうございました!

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    2. 意訳が許される分野とそうでない分野もありますよね。字幕なんかは語順あまり関係ないですし、そもそも意訳しないと制限文字数に収まらない。以前翻訳会社にいたとき、「直訳してください」という案件もたまにありましたが・・・。それでも読んで意味が通らなければNGじゃないでしょうか。
      memoQですが、翻訳者がライセンスを買う場合もありますよね。エージェントから認証情報が送られてくれば、それを使ってローカルでも、オンラインでも接続できる・・・と言いたかったのでした!わかりづらくて申し訳ありません。ひと昔前のTradosを、もっとシンプルにした感じです。

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    3. どこまで直訳するのか、意訳するのかは本当に難しいですよね。2語で同じ意味を言っているのにそれぞれ訳出しないと「訳抜け」と言われたりとか。最善の訳にするよりクライアントの要望を重視しなければならない場面もありますね。客商売である以上、仕方ない部分もありますが。。

      MemoQの件、再びご指摘ありがとうございます。自分でライセンスも買えて翻訳会社から認証情報を得られる時もある、というならMemsourceに近い感じですかね。翻訳者個人が多額の初期投資をしなければならないTradosはあれはああいうビジネスモデルなのでしょうが、他に初期投資しないで済む類似品があればみんなそちらに流れていきますよね。(とはいえば私は2017年から使用して毎回アップデートもしているのですが...)

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