2022年11月11日金曜日

字面訳と意味が通じる訳の違い

 私は以前から「字面で訳しても意味が通じなくては訳す意味がない」という話をしてきました。翻訳を商品として考えた場合、「意味が通じる」というのは最低限保証されるべき品質だと思いますが、発注者が軽い気持ちで「意味が通じればいいから」と言った場合、どこまでの品質を求めているのか、発注者側と翻訳者側(翻訳会社を含む)の間でズレが生じているような気がするので今回このブログを書くことにしました。

 機械翻訳等でときどき散見される「字面で訳した文章」と翻訳者が「原文の意味を考えて訳した文章」は具体的にどう違うのでしょうか。例を挙げたいと思います。

例えばこういう一文があったとします。

Many legal things are often considered unethical. 

(Macmillan Skillful Second Edition Level 3 Reading & Writing Student's Bookより引用)

 これは大学生用のリーディングのテキストからの引用です。"It's legal, but is it ethical?"という見出しのエッセイで、文脈としてはこの文(第6段落)より前の導入部分(第1段落)に

・「社会において、善悪の判断基準には法律的、宗教的、倫理的な解釈がある (There are legal, religious, and ethical interpretations that are commonly used in many societies to decide between what is good and bad.) 」

・「すべての非倫理的な行動が違法だとは限らないし、すべての合法な行動が倫理的だとは限らない(Not all unethical behavior is illegal and not all legal behavior is ethical.)」

という記述があります。

 これをヒントに、冒頭の英語を日本語に訳してみたいと思います。

「字面訳」との比較のため、試しにDeepLとGoogle翻訳にこの原文を入れてみます。

1.【DeepL訳】:多くの法的なことは、しばしば非倫理的とみなされます。—レベル①

2.【Google翻訳】:多くの合法的な事柄は、しばしば非倫理的と見なされます。—レベル②

 上の2つの訳は、文法的にはエラーはないように見えます。

 しかし「意味が分かるか」という観点で考えると私は上記2つの例はどちらも「字面訳」だと考えます。一応日本語になっているので、これでもなんとか理解できる人もいるのかもしれません。しかし、原文が訴えている内容がこれで伝わっているでしょうか。私はこれでは意味が分からないと思います。

 まず、主語の"many legal things"ですが、述部で"often considered unethical"と受けているため法律と倫理の比較という文脈ですから、ここで①のDeepL訳のようにlegal thingsを「法的なこと」と訳すと意味が通じません。Google翻訳のように「合法的な」と訳すべきだと思います。(DeepLよりGoogle翻訳の方が良いとか悪いとかいう話ではありません。機械翻訳の出力は毎回偶然の産物ですから「良し悪し」はその時によります)

 ではlegalを「合法的な」と訳した②のGoogle翻訳の訳で「ひとまずは通じる」と言えるでしょうか。私は微妙なところだなと思います。

 仮にこれをポストエディットするとなると、どこを「編集」すれば「より意味が通じる」文章になるでしょうか。

 語順を少し変えて

 3.合法的な事柄であって、しばしば非倫理的と見なされるものは多くあります。—レベル③

 としたらどうでしょうか。「多くの~」という表現を「~は多い」とした方が多少分かりやすくなったでしょうか。

 でもこれもまだ「原文が何を言っているか」を訳者がしっかり腹に落として訳していない、という印象があります。

 そうです、つまりこの文章は、「合法か違法かの境界線」と「倫理的にアリかナシかの境界線」は違う、と言っていて、合法の範囲内でも倫理的にはNGなものというのは世の中にたくさんありますよ、いうのが私が原文から受け取ったメッセージです。

ですから例えば私はこのように訳してみます。

【拙訳】

4. 合法なものの中には、しばしば倫理的に問題があるとされるものも多くあります。—レベル④(人手による翻訳

まだ硬いかもしれません。もっと踏み込めば次のようにも訳せるでしょう。

5. ものごとには、たとえ合法であっても倫理的には問題があるとみなされることは少なくありません。—レベル④'(レベル④の変形)

6. 世の中には、違法でなくとも道義的にはアウトだと判断されることは意外にたくさんあります。—レベル④"(レベル④の変形)

 いかがでしょうか。もちろん、10人いれば10通りの訳出があると思いますから、他にもいろいろと訳し方はあると思います。

 原文の意味を考えて訳したほうが分かりやすいのは、「うまく訳そう」と思って訳したのではなくて「どうすれば原文の内容をうまく伝えられるか」を考えて日本語を書いたからです。このように「分かりやすく訳す」ためには「原文を理解する」というプロセスが不可欠です。

 ですから翻訳者が原文の著者に「意味が取れないと訳せないので教えてください」と質問したときに、「意味なんて分からなくていいから直訳してくれればいいんだよ」と指示すると、全く意味が分からない訳文になりますよ、ということなのです。

 また、機械翻訳に入れても意味が分からなかったものを、翻訳者に依頼したら意味が分かりやすくなった、というのはこういう過程を経て翻訳しているからなのです。

 分野に限らず、ほとんどの職業翻訳者はこのように「内容・概念・イメージ」をつかみとってから訳出先の言語に落とし込んでいると私は思います。

 発注者が「意味が分かればいいから(そこまで手をかけて凝った訳文にしなくていいから=安くして欲しいor早くして欲しい)」という場合、上の①~④のどのレベルを求めているのだろうというところが現状、曖昧だと思います。

 これについては公的な基準を私が知る限りでは見たことがないのであくまで私の感覚ですが、

①は私の感覚では誤訳。

②はぎこちない訳? 

③はポストエディット? 

④が通常の人手翻訳

 だと思いますが、誰かが決めたわけではないので分かりません。

 発注者が「最低限意味が分かればいいから」「過剰品質は求めていない」と言ったとしても④のレベルを求めている場合はフルの人手翻訳の工数と料金がかかります。④以上にする段階で既に原文の解析は終えているので、④を④’にしたり④”にするのも実はそれほど手間は変わりません。もっと言うと、機械翻訳の②を③に修正する手間の間に④や④'にできてしまいます。

 翻訳者が翻訳に時間がかかるのは「訳文を無駄にこねくり回して品質を過剰にしている」せいではないのです。「最低限意味が通るようにする」ためには原文の理解、背景の調査、訳出対象言語での表現の決定、という一連の工程を経ているため、そこまでの作業ですでに翻訳作業の10割近くが終わっています。

 ですから作家のような文才が求められるような芸術的な文章でもない、特に産業翻訳のような場面では翻訳に「過剰な品質」などほぼ起こりえないのではないかと思います。職業翻訳者は日々、厳しい納期に追われながら「意味がしっかり伝わる文章」にするために精一杯の仕事をしています。それ以上無駄な時間をかけて訳文をひねりにひねっている時間はない人がほとんどではないでしょうか。

2022年10月8日土曜日

自分はなぜ翻訳をやっているのか

 JTF翻訳祭(#JTF31fesカセツウさん、テリーさん、佳月さんのセッションをリアルタイムで視聴。翻訳者のキャリアパスのどのステージにいる人にも刺さった内容だったのではないかと思います。


●自分はなぜ翻訳をやっているのか
を、改めて考える機会になった人も多いと思います。私はテリーさんに近くて、「翻訳をやりたいから翻訳をやっている」と思います。

別の場所で話したこともありますが、私は以前通訳者を目指していました。通訳学校に断続的に計10年通ったのですが同時通訳者は自分には無理だと悟り、結婚・出産を機に見切りをつけて翻訳に大きく舵を切ったという経緯があります。ですから「自分が本当にやりたいことは何か」という質問は私にとって普段触れないにようにしている禁断の質問でもあります。

ですが、今日のように刺さるセッションを視聴すると「自分にとって仕事とは何かという問いに向き合わざるを得なくなります。

私は小学6年生の時、当時テレビで放映されていた「夜のヒットスタジオ」という番組で毎週登場する海外アーチストについて出てくる通訳者の田中まこさんという方を見て「かっこいい!あの人になりたい!」と衝撃を受け、英語の道を志しました。地元の公立中学校で普通の英語の授業を受けて高校受験を迎えましたが、そのころから英語を集中的に学びたいという思いが高じて当時誰も出身中学から受験した生徒のいなかった「名東高校 英語科」を志望しました。受験データがないので担任の先生からも部活の顧問の先生からも反対されましたがどうしても受けたいと言って、私立のすべり止めを確保してから受けることを条件に挑戦し、合格しました。そうして英語漬けの高校生活を送り、大学も地元の県立大学の外国語学部に進み(ここでなぜかオードリー・ヘプバーンに憧れてフランス学科を目指してしまうのですが)、卒業後の進路も英語を使うことを条件に選んできて、人生の半分以上を語学屋として費やしてきました。

25歳で通訳学校の門をたたき、37歳で通訳者になることを諦めるまでの12年間、いつも私は「未来のために頑張る生活」を続けていました。人生の最終目標である「同時通訳者」になるまでは自分の人生を生きている感じがしていませんでした。時間にもお金にも気持ちにも余裕がなく、使うお金と時間と精神的余裕はすべて通訳者になるための教材や機会や勉強に費やしていて、遊んだりダラダラしたり無駄遣いしたりすることに常に罪悪感を持っていました。

最終的に諦めたのは、仕事と睡眠と食事(と入浴など日々の生活に必要な最低限の諸々のこと)以外のすべての時間を勉強と通訳学校の予習に充てるという半狂乱のような半年を過ごしても同時通訳のクラスで進級できなかった時です。脇目もふらずに勉強してもなお、自分には到達できない領域があると知り、挑戦を止める決意をしました。自分としてはもうこれ以上できないというくらい頑張ったので、清々しい気持ちでした。

それから翻訳一本に絞って12年が過ぎました。以前の顧客から通訳をやりませんか(アテンド通訳など、逐次の仕事です)と連絡が来ても子育てを理由に断ってきました。「外に出られないので」という理由で断ってきたのですが、コロナで事情が変わりました。

以前通訳学校で一緒だった勉強仲間はその後も頑張って勉強を続けてクラスを卒業し、同時通訳者として活躍しています。子育て期間を経た人もいますが、コロナ禍を経て機材も揃えて自宅からリモートで通訳の仕事をすることもあるようです。

そうなると「家から出られないので」という物理的理由がなくなります。子育てを理由に通うのをやめてしまっていた通訳学校にもオンラインでなら通えることになります。実際、コロナ禍が始まった当初の2020年は通訳学校にオンラインで復帰することも考えました。

しかしやはり、「自分なりに最善を尽くした結果、限界を見たので撤退することにした」という自分の気持ちも大切にしたいという思いがありました。「好きなことをできればそれで幸せ」だけでは、子どももいる今の生活を守れないと思ったのです(余談ですがコロナ禍直前の2019年暮れに離婚して現在はシングルマザーです)。

私にとって仕事は自己実現の手段のひとつではありますが、同時に日々の糧を得る手段でもあります。「夢だった同時通訳者になるまでは、何がなんでも諦めない」という30代の時の気持ちのまま突っ走ればそのまま老いて死んでしまうかもしれません。

今、私が目指しているのは「仕事の中に少しでも楽しみを見つけられて、それで自分と子どもの生活に必要な日々のお金を賄うことができて、体を壊すほど無理して仕事をしなくても、それなりに趣味や遊びに使う時間もある生活」であるので、大好きな仕事をできればそれだけで幸せというステージは過ぎたのかなあと思っています。

フリーランスとして自宅で翻訳をするという生活では、受注が切れないように顧客の新規開拓を怠らずいただける仕事に誠実に取り組み、体を壊しそうだと思えば時には仕事をお断りしたりして調整することによって、自宅で好きなドラマを見たり映画館に出かけたりする程度には余暇の楽しみも確保したいと思います。

同時通訳者という最終目標に向かってがむしゃらに努力していた頃より肩の力は抜けていて、バランスの良い生活ができているとは思うのですが、ふとした瞬間に「子どもの頃からやりたいと思っていたことを手放してしまって良かったのだろうか」という思いがよぎることもあります。

結局、どんな仕事をしてどんな仕事を断って生きていけば自分が一番納得できるのか、考えるのを止める日は来ないのだと思います。現在進行形で悩みながらこれからも生きていくのかと思うと、40歳で不惑だなんて、一体誰が言ったんだよと思います(笑)。

話はそれましたが、冒頭の自分はなぜ翻訳をやっているのかの話に戻ります。

私は映画字幕翻訳家の戸田奈津子さんのように「映画が好きだから映画の字幕の翻訳者になった」とか「●●が好きだからそれを訳すようになった」のではなく、「英語から日本語に」「日本から英語に」訳すプロセスそのものが好きだから翻訳をしています。

それは通訳をしていたころも同じです。話している内容そのものに自分はあまり興味がない場合でも、誰かにとっては大事なお仕事の話であり研究の話ですから、自分がその内容を上手く伝えることで両側にいる人たち(英語話者と日本語話者)の利益につながるところに自分の存在意義を感じていました。

それが書き言葉になっても同じく、原文の内容をいかに損なわずに等価のまま訳文に移すかという作業そのものに楽しみとやりがいを感じます。

ですから、翻訳者としての仕事を始めたころは「何を訳しても楽しい」と感じていました。

ところが、翻訳者としてキャリアを重ねてくると自分にも得意分野と不得意分野があることに気づき始めてきます。もっと言うと、好きな分野嫌いな分野があることに。経験値や自分の適性とは別のところで、「好きな分野は速く訳せる」「集中できるから効率も上がってクオリティも高くなる」ことに気づき始めました。

また、不思議なことに(まあ、不思議でもないですが)、報酬の高い仕事の方がやる気が高まり楽しくなる、ということにも気づき始めました。これは私自身、報酬の高いもの・低いもの、内容が好きなもの・嫌いなもの、と雑多なものを訳してきた経験からなのですが、「いくら楽しい内容の仕事でも報酬が理不尽に低いとムカついてきて楽しくなくなる」という気持ちも経験しました。

コロナ禍以降、それまで子育てを理由に同業者と交流してこなかった私も、オンラインでのつながりを経て色々な方と知り合って色々な情報を得るようになりました。翻訳者という働き方についてモヤモヤとしたものを常に胸の中に抱えてきたのですが、このブログを始めとして自分の考えたことをその都度書いたり口に出したりして自分の気持ちの棚卸しをする機会にも恵まれてきました。

自分が本当にやりたいことってなんだろう」と自分に問うとき、若いころは(未婚の頃は)経済的な見返りも自分の生活を成り立たせることも度外視で「どんな職業につきたいか」という理想ばかりを追いかけていたのですが、今は同じ質問(自分のやりたいこと)を問うとき、その答えは「どんな生活を送れれば自分は幸せなのだろうか」に対する答えなのかなと思っています。

今の私にとって、自分が幸せであるためには
・仕事の内容
・報酬
・仕事の時間(余暇に割くことのできる時間)

はどれも欠くことのできない条件です。ただやりたいことを目指すのであれば、歌手になりたかった、お好み焼屋さんを開いてみたかった、移動販売でコーヒーとクレープを出す店をやってみたかった、フランチャイズでドトールの加盟店になってみたかった、とかいろいろあります。でも人生残りあと数十年で全部に手を出すことは不可能です。やっぱり自分には一番好きな語学を生かした仕事で最大限幸せを追求するのが現時点では最適解だと思っています。

●仕事のやめどき
セッションの後半で「翻訳のやめどき」の話になりました。自分にとって翻訳の仕事を辞めるのはいつだろうという問いに対して、テリーさんは「勉強の意欲が失せて良い訳文が生成できなくなったとき」「市場から自分が必要とされなくなったとき」というようなことをおっしゃっていましたが、私もそれに近いと思いました。自分が世の中の役に立てなくなったときが潮時だろうと思いますし、そうなる頃には仕事の打診も来なくなるだろうと思います。

それは未来の話ですが、過去に実際、仕事を辞めたくなったときを振り返ると(翻訳をやめたいと思ったときの話)、私の場合はオーバーワークになりすぎた時に嫌気がさして辞めたくなっていました。つい最近もありました。あちらにもこちらにもいい顔をしようとして仕事を受けていると、慢性的に徹夜になって体調にも精神にも異常をきたします。

私にとって翻訳は楽しいことであると同時に仕事でもあるので、ロボットのように休みもなく働き続けることはできないと改めて思いました(改めなくても気付けよ私)。

仕事はあくまでもビジネスですから、生活が成り立たないほどの低報酬で働くべきではないと思います。単純に疲れてしまいますし、自分にとっての幸せからも遠のいていくと思います。

3人のセッションでは翻訳のクオリティの高め方や単価交渉のお話などそのほかにもメモとりまくりの内容の濃いお話が続きましたが、このブログではここまでにします。気になるかたはアーカイブセッションをどうぞ。ちなみに翻訳祭は今からでも申し込めるようですよ。(10月18日まで)



翻訳祭などのイベントは翻訳業界の入り口に立っている人だけでなく、私のように中に入ってからまあまあ長い人(笑)にとっても、新しい気づきや知見の得られる素晴らしい機会だと思います。素晴らしいセッションをありがとうございました。

—今日はここまで—

2022年10月3日月曜日

翻訳で食べていけるのかという話

ここ数日間、あるユーザーによるTwitter投稿がきっかけとなり、翻訳の時給の話や翻訳で実際食べていけるのか、といったトピックが話題になりました。私もTwitterで「#翻訳で生計は立てられます」というハッシュタグをつけて投稿するなどしてこの話題に乗っかりました。

確かに様々な要因が重なって「重労働×低報酬」になり、かかった時間で試しに割り算してみたら時給換算で数百円になってしまった、ということは実際にあると思います。でも、そういう場合があるからといって、翻訳業界全体がそうであるとか翻訳が儲からない仕事であるかのように一部の人から言われるのは放っておけないと思いました。

翻訳者はフリーランスの方が多いので、やりようによってはすごく儲かる人も全然儲からない人もいると思います。でも、先を歩いている私たち現役翻訳者たち自身が夢のない話ばかりして「参入障壁」になるべきではないと思います。

翻訳の仕事はバラ色だとは限りませんが、地獄ばかり見ているわけではありません。ああ本当に面白い仕事ができたなあとか、お客さんがものすごく喜んでくれたなあとか、ちょうどいい時に大きめの仕事が入ってきてくれて(経済的に)助かったなあとか、良いこともたくさんあります。

腕を磨いて営業活動もしてしっかりと顧客をつかめば受注の切れない翻訳者になれますし、自分にしかない売りがあれば高単価で条件の良い取り引き先をつかむことも夢物語ではありません。

反対に、いくら翻訳の勉強をしても資格を取っても翻訳学校を卒業しても、仕事を獲得する努力をしなければ仕事は来ません。

翻訳の腕を磨くことと仕事を取るための努力は、どちらか一方だけでは仕事は来ません。両輪で努力していかなければ翻訳で食べていくことはできないと思います。

実力がある人も最初から実力があったわけではないでしょうし、有名な人も最初から有名だったわけではないと思います。

少なくとも今有名だったり実力者と思われたりしている人は、何も努力せずに今の場所にいるわけではないと思います。親が有名だったり生まれ持った特別な才能があったり幼少期に海外で過ごしたなどの幸運が重なった人も中にはいるかもしれませんが、そんなラッキーな人ばかりではないと思います。

ベテランにも初心者の頃は必ずあったわけですし、今翻訳スピードが速い人も駆け出しの頃は何をどう調べたら良いか分からず数百ワードの翻訳にまる一日かかったなんていうこともあったかもしれません。

私が一番言いたいのは翻訳を仕事にしているわけでもない人が、翻訳は儲かるとか儲からないとかテキトーなことを言わないでもらいたいということです。

翻訳を仕事にしたいと思っている人は、外野がやいやい言ってくるだけのなんとか知恵袋やなんちゃらGoo!とかで質問していないで、SNSで現役翻訳者をフォローしたり業界誌を読むなどして正しい情報を収集することをお勧めします。

2022年8月19日金曜日

機械翻訳に対する現時点(2022年8月)での私の認識

字幕翻訳スクールがAI字幕翻訳ツールを開発したというニュース

 数日前に字幕翻訳スクールがAI字幕翻訳ツールを開発したというニュースが流れ、翻訳者たちの間に衝撃が広がりました。これを受けて翻訳者の堂本秋次さんがYouTubeで緊急動画を配信され、それを見たローズ三浦さんの発案で堂本さん、ローズさん、私の3人で機械翻訳の現状についてライブ配信することになりました。当日の告知にもかかわらず30名以上に方々にライブでご視聴いただき、その場でコメントもたくさんいただき成功裡にイベントは終了しました。(3人のトークイベントの動画はこちら:https://www.youtube.com/watch?v=L09NEJLBNzU

普段「機械翻訳についてどう思いますか」と聞かれるわりに回答にこれほど長い時間をいただけることはなかったので、司会の堂本さんが用意してくださったテーマでお2人と話すことで私自身としても改めて機械翻訳について自分がどう認識しているのか考えを深めることができて、非常に良い機会となりました。

話題は多岐にわたったので2時間半の長丁場となった議論を全部ここに文字起こしすることはしませんが、記憶が新鮮なうちに議論を通して感じたことを書き留めておきたいと思います。

議論で深まった自分の思考

まず、件のAI字幕翻訳ツールが登場したというニュースを受けて堂本さんが素早く出された動画がこちらです(https://www.youtube.com/watch?v=_qqDGSc0Yhg&t=6s)。これを見て、ああ、自分の言いたいことはほとんど言ってくれているなあという印象だったのですが、それを踏まえていてもやはり3人で話をして配信中の視聴者からのコメントも見ながら議論すると1人で話したり考えたりしている時よりもいろいろな考えが浮かんで自分なりに思考が整理されたように感じます。

同配信では以下のようなテーマについて話しました。

・機械翻訳の性能について

・機械翻訳は人間の翻訳の価値にどう影響するか

・ツールとしての機械翻訳の有用性とFP(フルポストエディット)やLP(ライトポストエディット)について

・機械翻訳だけで成り立つ業界は生まれるか?

・ビッグデータの取得経路について

・機械翻訳との共存に翻訳者は何ができるか?

機械翻訳を個人的に使う人と仕事として請ける翻訳者とでは見ているものが違う

最初のテーマで話を振られた時、3人とも現在の機械翻訳については「かなり精度は上がってきていると思う」という回答をしました。しかし、そのあとポストエディットに話が及ぶと「機械翻訳の出力をエディット(編集)することで必ずしも作業負荷は軽減されていない」という実感を口にしました。見る人には早速矛盾を起こしているように聞こえたかもしれませんが、このように話したのには理由があります。

例えば会社の中でDeepLやGoogle翻訳などを使っている人と、「MTPE(機械翻訳のポストエディット)」を案件として受注している翻訳者またはポストエディターとの間では見ているものが違うということです。

会社員や個人が会社や自宅で外国語で書かれた資料やニュース記事をDeepLやGoogle翻訳に入れた場合、「あ、結構いい訳が出るじゃないか」と感じるだろうと思います。ここまでは私も同じ感想を持ちます。(2016年にGoogle翻訳にニューラル翻訳が導入されて以来機械翻訳の精度は劇的に上がりました。)

しかし、機械翻訳に入れてみて「まあまあの精度だった」ものは、その場で「ああよかった。結構使える訳が出るじゃないか。じゃあこれをこのまま使おう」と言って資料やその他の文章に使い、それで終わっていきます。

翻訳者やポストエディターにわざわざ「お金を支払って」エディット(編集)して欲しい、というのは大半が「機械に入れてみたけどどうしようもなかったもの」です。主語がないものや固有名詞が頻出するもの、前後の文脈を知っていなければ訳せない内容のもの、構文が複雑すぎて機械では読み取れなかったもの等様々ですが、こういった「機械翻訳では全然意味が分からなかったからお願い」と、いわば駆け込み寺のようにして持ち込まれたものを私たちは現場で相手にしているわけです。このレベルになると、「ちょっと修正すれば済む」という話ではなく、ほとんどの場合全部消してイチから訳し直しになります。

このような現状を多くの人は知らないので、「翻訳者たちは自分たちの仕事がなくなると困るから『機械翻訳の出力なんかダメだ』と言ってるだけじゃないのか。DeepLの出力はこんなにも良いのに」と不信感を募らせるのだと思います。

しかし上で説明したように両者は見ているものが違うのです。そこが食い違っているから一般の人と翻訳者との間で機械翻訳に対する認識が食い違っているように感じるだけだと思います。

翻訳を職業にしていなくても社内に英語ができる人材を多く抱える会社も少なくありませんから、「機械翻訳にかけてみてだいたい良さそうだけど正しいかどうか不安だから念のため確認して欲しい。間違っていたら修正して欲しい」という案件もあるにはありますが、まれです。その程度の確認で済む話であれば社内で語学の堪能な人がチェックして微修正すればいい話だからです。多くの人はこの作業を翻訳者が担っていると誤解していると思います。

しかし、機械翻訳で良い偶然が重なって偶発的に良い訳文が出力されれば、社内の人がチェックして終わることが大半なので、そもそもその案件が市場に出てくることはほとんどありません

多くの発注者が「だめだこりゃ」と思って人間の翻訳者に依頼してくる案件がポストエディットと名がついた訳し直し案件なのです。

機械翻訳が台頭してきたことによる翻訳者への直接的な影響として、翻訳市場に上がってくる案件の難易度が上がっていることが挙げられます。

2016年のNMT(ニューラル機械翻訳)導入以前は例えば「この商品の納期はいつごろになりそうですか」「先日はありがとうございました」などといった簡単な内容がクラウド翻訳サイトに翻訳依頼案件としてあがっていました。学生アルバイトや翻訳者としてのキャリアをスタートさせたばかりの人たちがこうした案件をクラウドで受注して小遣いを稼ぐことはそのころはまだ可能だったのです。

しかし、現在はそのようなシンプルな内容であれば一般の人が無料で使える機械翻訳サービスでそこそこの翻訳結果が得られるため、わざわざお金を払ってまで発注するケースはまれになりました。ですから一時期隆盛だったクラウドソーシングサービスからも簡単な内容の翻訳案件は姿を消すことになりました。

機械翻訳でどうにもならなかった出力を何とか生かして作業負荷を減らすなどということはできるはずもありません。機械翻訳で単価を減らされても翻訳者が楽になるのは「手を入れなくても使えるレベルの高精度の出力が多く含まれる」場合に限ります。

「意味は分かるけどこんな言い方はしないからゼロから良い表現を頭で考えなければならない」

「一応これで意味は合っているけど業界でこの表現でいいのか(客先でこの用語が使われているのか)確かめなければ使えない」

「固有名詞は一応訳されているけどこれで合っているのかどうかは裏が取れていないので会社のウェブサイトに行って確かめなければならない」

「なんとなくそれっぽく訳されていて原文を見なければこれで良さそうに見えてしまうけど原文と突き合わせて確認したら意味が全く違ってしまっている」

こういうケースは山のようにあります。

機械が訳した出力を確認して修正して欲しい、という場合、訳文だけを見て直しているわけではなく原文と突き合わせて正しく訳されているか確認しながら(正確性を担保)、日本語の文章として(あるいはその他のターゲット言語の文章として)読みやすいように編集する(流暢性を担保する)作業は、インターネットでの調査、それを含めた原文の理解、ターゲット言語で読みやすい文章を再構築するという工程を通りますから通常の翻訳と何ら変わらないのです。(それどころか、機械の出力を確認しなければならない分、通常の翻訳より作業負荷は大きくなります)そこを「ポストエディットなんだから安くしてよ」と言われても単なる値切り行為としか感じられないため、多くの翻訳者がポストエディット案件を敬遠するのです。

翻訳者が「機械翻訳のポストエディットで作業は楽になっていない」というと「本当は楽になっているのにお金が欲しいから機械翻訳の出力がまずいとおおげさに言っているんじゃないの」「翻訳の仕事を機械に奪われたくないからポジショントークをしているんじゃないの」と言われるだろうと思っていたので、どう説明すれば一般の人にもわかってもらえるのだろうか、とずっと頭を悩ませてきたのですが、今回配信の中で自分がふと発した「一般の人と我々では同じ機械翻訳と言っても見ているものが違うんですよ」ということでかなり説明がついたのではないかなと思っています。

良い文を良いと思う人が減れば減るほど翻訳文化が死んでいく

8月16日の動画の中で堂本さんがおっしゃっていた「良い文を良いと思う人が減れば減るほど翻訳文化が死んでいく」という言葉が印象的だったのですが、本当にその通りだなと思います。原文を正しく解釈して原文が伝える内容を等価のまま訳文に反映させるという翻訳の仕事には思考を伴います。しかし、機械は過去データから似たようなケースを導き出して「たぶんこれなんでしょ」という結果を偶発的に提示してきているに過ぎないので、「細かいことを言えばちょっと違うけどまあいいか、タダだから(安いから)」と妥協して使うことが増えると、別に一生懸命正しく翻訳しなくても良い、ということになり、世の中にテキトーな翻訳めちゃくちゃな翻訳がはびこることになります。きちんとした翻訳をする翻訳者に正当な対価が支払われなくなると場合によっては生計が立てられず廃業する翻訳者も出てくると、まともに訳せる翻訳者が市場からいなくなり、究極的には翻訳文化が死んでいきます。


機械が訳しやすいような原文を書け、という流れが加速すると言語活動が狭まり、日本語文化が衰退していく

このまま機械翻訳の導入が加速していくと、現場で「機械が訳しやすいように原文を書く」という流れも加速していくだろうと思います。そのようなことは一部で現実に起きています。ご承知の通り機械は基本的にこれまで蓄積されてきたビッグデータの統計とそれをもとにした機械学習の成果からしか訳を導き出せないので、新たな概念、新たな用語、新たな内容は訳すことができません。仮に人間の翻訳者を一切排除して機械翻訳だけでも良いものが完成しましたという未来がきた場合、新しい言葉を入れると機械は訳せないから機械が訳せないような原文を書くのはやめてくれということになると、原文のライターに著しい制約が課されることになります。産業翻訳の場面でシンプルで分かりやすい説明が求められる現場ならまだしも、文学やエンタメ、新しい研究結果を伝える論文などで「機械が訳せる範囲の言葉しか使ってはならない」ということになると、大げさな話ではなく言語が衰退していきます。

英語に訳す前提で書いてくれ、となると単語やフレーズレベルではなく、英語に訳しにくいことは書かないように、言わないようにしなければならなくなって言語活動が縮小していきます。

新しく出てくるはずの美しい言葉、面白い言葉、感動する言葉をこれから先も守っていくために、「どんな概念が出てきてもなんとか訳をひねり出してみせます」という人間の翻訳者の存在は絶対に確保しなければ、日本語が貧しくなっていくのです。これは絶対に阻止しなければなりません。

ホンヤクこんにゃくは人類の希望

機械翻訳は実際、便利です。私も好きな韓国スターの発言を読みたくてGoogle翻訳を使いますし、ネット通販を使ったら意図せず中国から商品が送られてきて中国語のマニュアルしかついていなかったらスマホのカメラ翻訳機能を使って説明書を読むこともあります。

自分が学習していない言語を日本語に訳せるというのは素晴らしいことです。この技術の進歩を誰も止めることはできないですし、「まだまだ機械翻訳の性能は低いから大丈夫ですよ」などというつもりはありません。

そうではなくて、機械で訳せるものも多くなったけれど、「機械でどうにもならなかった部分」は必ずこれからも存在して、決してゼロになることはない、というなのです。

そこにまだまだ翻訳者が活躍する道が残されているとみるか、他の仕事へ徐々に軸足を移すのか、それとも「機械にできることは機械にゆずって人間は人間にしかできないクリエイティブな内容の翻訳に今後は注力していくべき」ととらえるのか、現状認識の方法は複数あると思います。

機械翻訳の精度を過大評価していると翻訳者が言う理由

「機械翻訳メーカーや販売者が機械翻訳を過大評価している」と翻訳者たちが言うと、「翻訳者たちは自分たちの仕事を守りたいだけなんだろう」と思う層も一定数いると思います。それは仕方がないことです。先にも述べたように、極めて幸運なケースでは、良い翻訳結果が得られることも多いからです。

しかし、仮にどこかの機械翻訳の営業担当者が仮に「弊社の機械翻訳は精度95%です」と言った場合、お金をいただいて仕事をする我々のところに回ってくる案件は「残りの5%ばかりを濃縮した苦い汁」なのだと説明すれば分かっていただけるでしょうか。

機械翻訳に入れてみたけどどうにもならなかったケースは一般の人も間違いなく目にしているはずです。

幸運にも上手く訳せている箇所は場合によっては「翻訳対象外」としてマーキングされて支払い対象から外されているというケースもあります。CATツール(翻訳支援ツール)などでは「セグメントをロックする」という機能もありますが要は「ここは訳さなくていいですよ」とは「ここは機械がうまく訳せているのでお金を払いませんよ」ということです。

苦み成分を濃縮した罰ゲームのお茶のようなものを称して「ポストエディット」として正規の翻訳料金の7掛け、5掛け、場合によっては3掛けといったような案件を打診されて泣く泣く受注している翻訳者も少なくありません。

私も時々MTPEの打診を受けるのですが数年前から基本的には断っていて、先日久しぶりに打診があったので「そろそろ精度が良くなったのか見てみたい」という好奇心もあって受注したところ相変わらず「だめだこりゃ」案件でした。しかも、多少これなら使えそうだなというセグメントにはすべてロックがかかっていて、どうにもならない出力結果ばかりの「機械翻訳結果」をため息をつきながら再翻訳しました。報酬は翻訳料金の6割程度でした。これから先も数年はMTPE案件は受けないと思います。

まとめますと私が言いたいのは、世間で思っているほど機械翻訳の精度が上がっていない、と私たち翻訳者が言うとき、一般の人が言う「結構良い出力が出るようになってきた」という場合の良い方の出力の話をしているわけではない、ということです。

翻訳者が自分の仕事を残したいから嘘を言っているわけではないことは最後にもう一度強調しておきます。

—終—

2022年3月1日火曜日

似ているけどニュアンスの違う言葉

先日、Twitterで以下のような投稿をしたところ、たくさんのお返事をいただきました。

==================================

①「痛くも痒くもない」(特に何ら影響を受けない)と

②「痛みとか痒みとかは特にない」(例:予防接種の接種部位の話等) のように #似ているけどニュアンスの違う言葉 がありましたら教えてください。今度ブログ記事でまとめさせていただきたいです。
==================================

早速ご紹介します(順不同)。

「夢も希望もない」
「夢とか希望とかは特にない」

「血も涙もない」 「血とか涙とかは特にない」 「居ても立ってもいられない」 「座っていることも立っていることもできない」 (後者は病人ですね。)⇒笑いました 「どうもこうもない」 「どうということも、こうということも、特にない」 「骨の折れる」(労力を要する) 「骨が折れる」(怪我としての骨折) 「頭が切れる人」 「キレる人」 「言い訳(いいわけ)する」 「いい訳(やく)する」⇒これは一度Twitter上で誤解を招く投稿をしたことがあります私 「おざなり」 「なおざり」  ⇒おっと、と思った方は国語辞典へGo(私も行きました) 「トイレが近い」 「トイレが近くにある」 「踏んだり蹴ったり」 「踏んだり蹴ったりする」 「真っ直ぐ帰る」 「真っ直ぐ歩く」 「朝飯前」(ちゃちゃっと簡単にできてしまうこと) 「朝ごはんの前」(朝ご飯の前に学校の準備を済ませる…など) 「構わないよ(It's ok.)」 「構わないで(Leave me alone.)」 「役不足」 「力不足」 (足りないのは仕事か、能力か)
「気の置けない人」 「気が気でない人」 (相手が信頼できるか、できないか)) 「首っ引き」 「首ったけ」 (チラチラ見る対象が手元の参照資料か、好きな人か) 「片腹痛い」(滑稽で苦々しく見ている) 「腹が痛い」(体調)

ご協力いただきました皆様、ありがとうございました。

こうしてみると、似ている言葉なのにニュアンスが変わってくる言葉というのは慣用句に関係してくる話なのかなと思いました。

これはもともと、先日、実家の母と予防接種の副反応の話を電話でしていた時に、お互いに副反応は軽かったので(体質的に幸せな親子)「痛くも痒くもなかったよね」と話していたのですが、確かに「痛み」と「痒み」はなかったけど、「まったくなんともなかったわけではなかったのに面白いなあ」という思いが頭をよぎったため、出した話でした。

「痛み」「痒み」はなかったけどなんとなく倦怠感と軽い頭痛はあったという場合、「痛くも痒くもなかった」という日本語は誤解を招くなあ。と思ったのです。

頭の中のメッセージを正確に日本語で言うために、ちなみに私の場合、(2回目の副反応のことを話した際)

「痛くも痒くもなかったよ。というか全然なんともなかったという意味じゃなくて、痛みとか痒みとかは特になかった、ってことだけどね。軽い倦怠感と頭痛は少しあった」

のように言い直した記憶があります。

こういう違いは日本語だけでなく、各国語にもおそらくあると思うので調べたら面白そうです(パッと浮かんだのはpiece of cake)。

2022年2月20日日曜日

雇ってもらう先を探すのではなく、自分の商品を売る先を探すという視点で考える

■ 翻訳者と顧客は雇用関係にない

 翻訳者が仕事を探すとき、まずは求人サイトに行きますが、そしてそれはアクションとしてひとつも間違っていないのですが、残念なことに無事に翻訳会社に登録を果たしてもそれがすぐに仕事に直結しないことがあります。

 誤解されやすいのですが、フリーランスの翻訳者が翻訳会社に登録を果たしても、それだけでは両者の間に雇用関係は発生していません。契約書を交わし、秘密保持契約などを済ませたら、あくまで「次から何か頼みたいことがあったらいつでも頼める」状態になっただけです。

 顧客は一度頼んでみて気に入らなければ別の人に頼みますし、翻訳者も一度頼まれたからと言って次からも絶対に継続案件を受注しなければならない義務もありません(そういう契約になっている場合を除きます)。

 たとえて言うなら、新たに知り合った人とLINE交換をして、「またそのうちランチに行きましょうね」とあいさつ代わりに言って別れる状況と似ています。連絡先が手に入ったので、どちらかから誘えばランチは実現しますが、日にちを決めたわけでも店を予約したわけでもないので、お互いに何もしなければ何も起こらない、という状況と同じです。

 これに対して、正社員や契約社員、派遣社員という形態で雇用されていれば、平日午前9時から午後5時まで決まった場所に出勤して翻訳作業をするか在宅勤務でも同様の勤務時間に翻訳作業に従事するなど、雇用契約が成立した後からすぐに仕事が発生します。

 そうではないフリーランスの翻訳者にとって、「翻訳会社への登録」はあくまで「今度頼む時があったら頼みますね」という、ランチの口約束と同じ状態に過ぎず、継続的な仕事発注に結び付けるにはもうひとつ別の視点が必要になります。

■自分という商品を顧客という消費者に売るという視点で考える

 よく仕事が来ている翻訳者のことを「売れっ子翻訳者」と呼ぶように、フリーランスには売れている人と売れていない人がいます。その違いは何かというと、必ずしも日ごろから営業活動をめちゃくちゃ必死でしているかどうかの違いではなく、シンプルに「自分の魅力が顧客に十分に伝わっているかいないか」だと思います。営業など一切していないのに、口コミで評判がどんどん伝わって、仕事がいつも途切れない翻訳者もいます。

 魅力が伝わるかどうか以前に、まず「自分の存在が知られていない」翻訳者もいます。どこで売っているか分からない商品を消費者は買うことができないので、「ここで売っていますよ」と宣伝する必要があります。それが各種ディレクトリなどへの登録や自分のウェブサイト作成などにあたると思います。

 また、宣伝は十分なのに一度発注が来ても二度目がない、という場合は残念ながら商品に魅力がなかった可能性もあります。「義母と娘のブルース」というドラマをご覧になったことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、わざと客がよく通る時間帯にパンが焼きあがるようにして匂いで客を引き寄せても、結局パンが美味しくなければリピーターはこない、むしろ宣伝した上に美味しくないパンを売ると「あそこのパンは美味しくない」という印象を持たれてしまって次から売れない、ということがあります。

 宣伝するなら良い商品を用意しなければならない、というのがまずはフリーランス翻訳者の課題です。

 「なぜ雇ってもらえないのだろう」と考えるのではなく、「自分の商品はなぜ売れないのだろう」というマーケティング目線で考え始めると、現在の自分にとっての課題が見えてくるかもしれないと思います。

■翻訳者にもマーケティングの視点が必要

 そのことに改めて気づいたのは、先日(2022年2月3日)私のInstagramアカウントでインスタライブを行った際に、そのイベントにタイトルを付けたときのことです。そのライブの目的は翻訳者志望者から翻訳者への質問を募り、複数の翻訳者でその質問に答えるというものでした。

 マーケティングに詳しいある方と一緒に企画していたので「何かキャッチ―なタイトルをつけて欲しい」と頼んだところ、「翻訳者のたまごをあたためよう」というタイトルが出てきました。

 これは素晴らしいと思ってそのタイトルを含めて事前告知したところ、想定を超える数の方に視聴いただいて、イベントは大いに盛り上がりました。

 それまでにも翻訳者志望者や学習者を対象にして翻訳者が質問に答えます、という機会はいろいろと作っていたのですが、音声SNSアプリのサービスでルームを開いてみてもいまいち質問者が現れず、アドバイスできる翻訳者ばかりが集まってイベントが終わってしまったこともありました。

 今回は新たにInstagramという媒体を使ったことの効果もあったかもしれませんが、私はこの時にタイトルの偉大さ、キャッチコピーの大切さを改めて思い知りました。

 私が翻訳者志望者の人たちの質問を拾いたい、それに答えたいという思いを持ったのは、このブログでもかねてから警告を重ねている高額な悪徳翻訳講座に引っかかって欲しくない、見えづらい翻訳者への道を示すことができればそういう変なものに引っかかる人も減るかもしれないという思いからだったのですが、これまでどうすればそういう人たちから実際に質問を受け付けることができるのか、把握できていませんでした。

 「翻訳者のたまごをあたためる」という温かいメッセージが「刺さるコピー」となって、今まで翻訳者と交流できる場を知らなかった人たちの目にまで届きました。イベントが終わってからも、「あのタイトルが良かったよねえ、ほんとに」とその人に何度言ったか分かりません。

 フリーランス翻訳者が客先に自分の商品(「翻訳」)を売りたい場合も同じだと思いました。買ってくれる人に自分を見つけてもらうというマーケティングの要素が、翻訳者にも必要ではないかと改めて思ったのです。

■自分の魅力の棚卸し

 そういう視点に立って自分の仕事を振り返ってみました。すると、「私の仕事には何の特徴もないし」「医療とか特許とかマーケティングとか、これと言って強みがない」と思っていたのですが、いろいろ考えているうちに私は以前製造業で社内翻訳をしていたことを活かせるのではないか、そして翻訳の品質を製造業の用語でたとえてみたら面白いのではないかということを思いつきました。

 私がいつも翻訳の際に心がけていることは「ちゃんと意味が分かる文章になっているか」ということでした。

 そのためにはインターネットを使った事実の裏取りリサーチや幅広く辞書で調べること、リサーチで得た情報から論理的に推理をして話の流れを見落とさずに訳していくなどの工夫が必要なのですが、分野をひとつに絞らずいろいろ受注している自分にとってもこれは一つの特徴になるのではないかと思いました。

 そういう考えをいろいろとめぐらせているうちに「意味が分かる翻訳」という言葉がふと浮かんだのですが、すぐに「当たり前やないかい!」という自分のツッコミの声が聞こえてきて、「当たり前品質」という言葉が頭に浮かびました。(当たり前品質とは製造業の用語です。これについてはまた後日別の投稿で話します)

 翻訳の当たり前の品質とはなんだろう、翻訳の品質とはなんだろう、顧客に喜ばれる品質とは何だろうと考えながら、実際の翻訳作業をしていると、いつもより良い翻訳ができるような気さえしました。

 我々職業翻訳者は普段一生懸命翻訳の仕事をして顧客に納めているので、こういったことは考えたことがなかった人も多いと思うのですが(少なくとも私の場合はそうでした)、「雇ってもらえるかもらえないか」ではなくて「自分の商品が売れるか売れないか」の視点で自分の強みを捉え直すと、見えてくるものもいろいろあるかもしれないと思った次第です。

2022年2月19日土曜日

一般の人に持たれているかもしれない翻訳者に対する5つの誤解

SNSで見かけた話や、普段私が感じている「翻訳者に対する誤解」をあげてみました。

①翻訳者って辞書なんて引かないんでしょ?

 引きます。引きます。めちゃくちゃ引きます。そんなに引くんですか、って引かれるくらい引きます(すみません、このくだりはあるツイートからからパクりました。すみません〇さん...)。

 知っているはずの単語にも知らなかった意味や語法があることがあります。英日・日英翻訳の場合、英和辞典・和英辞典でだけでなく、英英辞典、国語辞典、類語辞典、コロケーション辞典、百科事典など様々な辞書を引きます。

 自分が知っている単語などたかが知れていますから、少しでも迷ったらすぐに引きます。

 英日翻訳では私の場合、初めて見る単語に出会ったらまず英英辞典を引きます。自分が出会った文中での文脈に合いそうな定義に注目して読み、語義をつかんだ後で英和辞典を引き、そこに出ている訳語も確かめます。その後訳文に反映させたら、今度は国語辞典も引きます。その使い方で間違っていないか、原文の英単語のニュアンスを出すために使う日本語としてこれでいいか、確信を持つためです。さらに、もっと良い訳案はないかと、日本語の類語辞典も引きます。このように、知らない単語に出会った時私はざっと4種類の辞書を使います。

 さらに言うと、英英辞典は3、4種類引きます。

 私の場合、Oxford Dictionary of English、Oxford Advanced Learner's Dictionaryの後にネットのMacmillan Dictionaryを引くとたいてい解決するのですが、それでも文脈に合う定義が見つからない場合、American Heritage Dictionaryを引きます。Heritageを引くとたいていの言葉の意味が分かります。それでもない場合...(もっと続きますが今日はここまででやめておきます)

 翻訳者なのに辞書を引くなんて頼りない、心配だ、と思いますか?逆に、辞書もまともに引かずに作成された訳文って、怖いと思いませんか?

②英語(またはその他の翻訳対象言語)ができる人なら(ちょっと訓練すれば)誰でもできそうだよね

 これもよくある誤解です。ただし特別な才能がある人しかできないとか、ものすごく難しいから普通の人にはできない、とは言っていません。「ちょっとぐらいの訓練では」なかなかできるようにならない、私たちにもものすごく苦労した時期があったし今も毎日苦労している、ということです。

 とくに英語などの欧米言語と日本語の間には言語構造に大きな隔たりがあり、例えば語順が違うなど、訳しづらい要素がいくつもあります。(英独や日韓などの比較的言語構造が似ている言語なら簡単に誰でもすぐできるのか、と言ったらそうでもありません)

 言語間には文化的な背景の違いが必ずあり、便宜上使用している単語が仮に1対1で対応しているように見えても、その単語が持つ意味範囲は完全に同一ではありません。

 例えば、英語のYes/Noは必ず「はい/いいえ」で訳せるとは限りません。「あり/なし」の場合もありますし「賛成/反対」の場合もあります。

 英語のpleaseという単語も毎回「どうぞ」とは訳せず、時には「お願いします」とする場合もあります(し、場面によって訳し方は無限にあります)。

 英語の"identity"と日本語の「アイデンティティー」では意味する範囲が微妙に違います(日本語の方が語義が狭くなっている)。

 すべて文脈によって使い分ける必要があります。

 翻訳講座などに通って訳し方のコツのようなものを教わることもありますが、出てくる題材は毎回違うので、どこかで習った手法ですべての翻訳案件に対応できるわけではなく、毎回悩みながら訳します。悩んだ末にひねりだした訳語というのは翻訳者にとっては宝物のようなもので、大事にどこかにメモしておいたりするほどです。

 継続的に学習・訓練すれば、(正しい方向への)努力の量に比例して訳出は徐々に上手くなりますが、扱う分野の適性の見極めも必要ですし、実際の案件にたえうる実力を備えるまでには、比較的長い訓練期間が必要になるのがこの仕事です。バイリンガルなら誰でもできるわけではありません。社内のバイリンガルの人に気軽な気持ちで翻訳を頼むと、本人は影で泣きながら努力してやっているかもしれません。

③翻訳って英語じゃなくて日本語の勝負だよね(英日翻訳の場合)

 これは半分正しいですが、半分間違いです。英日翻訳の場合、英語ができればできるというものではないという話はすでにしましたが、かといって日本語さえ上手ければ(語彙力が豊富であれば)できるというものでもありません。もちろん、原文を読んで理解した内容を適切な日本語に置き換えるための日本語力は必要です。業界で使われている定訳を使うこと、それを調査することも必要ですが、それだけでも足りません。

 原文に書かれていることを過不足なくもう一方の言語に(※分かりやすく)置き換えること

 翻訳を一言で定義するならこうなるかと思います。(※ただし、これも時と場合によるのですが、例えば文学作品などで難解であることや意味深であることが味わいである場合、翻訳で分かりやすくしてしまっては台無しです)

 ただ、実務翻訳ではあまりそういうこと(味わいを残すために難解さも残して訳す)はないので、分かりやすく、読みやすくという部分は顧客からかなり求められる部分です。

 これは単に外国語に精通していて日本語の文章力が高ければ誰にでもすぐにできる作業ではないと言えます。

 海外生活が長かった人によくある現象ですが、日本人でも「日本語が出てこない」ということがあります。あることを言いたいのだけど適切な言葉が見つからない、というケースです。そういう時に翻訳者が適切な訳語を差し出すと「そうそう、それが言いたかった。やっぱりうまい翻訳者って日本語が上手いんだよね」と言うことがあるのですが、そしてそれは間違っていないですが、それだけではありません。

 上手い翻訳者が出した日本語が上手いと感じるのは、それが「原文を表すのにこれ以上ないくらいピンポイントで対応した訳を差し出した」からです。原文を無視して洗練された言葉や格好のいい言葉を適当に作り出したわけではなく、「原文をしっかり理解した上で適切な表現をもう一方の言語のプールから引っ張りだしてきて紐がけする力」があったからこそ、その日本語(訳語)を導き出すことができたのです。英語力と日本語力にプラスして、その2言語間に「橋を渡す作業」(2言語間の「橋」の話は以前、ランサムはなさんの言葉に出てきました)ができているからだと言い換えることもできます。

 要するに、日本語が上手いのは大前提ですが、その上手い日本語は「本当に原文が言っていることを正しく反映していますか」という話なのです。

 SNSで以前読んだ話ですが、ある会社にどんな難解な英語でもたちどころにスラスラ訳してしまうすごい人がいたと。とても読みやすく、分かりやすい文章でみんなが感激していて、と。ところがある時偶然その人が原文を目にしたところ、訳文と内容がまったく違ったというのです。恐ろしい話です。

 プロの翻訳者でこんなに極端な仕事をする人はまずいないと思いますが、社内で「ちょっと語学が得意な人」が訳すとこうなることは十分考えられます。

「日本語さえ上手ければ翻訳できるわけではない」というのはこういう意味です。

④とりあえず英語になってれば(日本語になってれば)イチから訳すより楽だよね?

 翻訳者が言われるとイラッとする言葉のひとつに

意味が分かればいいから(速く訳して)」というものがあります。依頼する人はそんなに細かい表現にこだわったりしないで細部は端折ってもいいから「書いてあることの概要をつかみたい」、できれば早くしてほしい、ということだと思うのですが、それを聞くと内心(それが一番難しいんだよっ)と思います。

 意味が分かるように訳すことでエネルギーの8割は使っています。というより、訳出の前に、原文の意味を把握するところまでで翻訳作業に使うエネルギーの8割近くを使っています。一般の人には残りの2割の表現力に注目が集まってターゲット言語の運用能力に注目が集まりがちというのは上で述べた通りですが、実は前半の読み込みと調べものに時間がかかっているというのは先日の記事でも述べた通りです。

 例えば学生アルバイトなどを使って翻訳してもらった場合、「ここちょっと意味が分からなかったのでとりあえず直訳しておきました。チェックして間違っていたら適当に直しておいてください」と渡された訳文があったとしたら、その部分は間違いなくイチから訳すのとほとんど同じ工数がかかります。

 翻訳者や翻訳チェッカーが翻訳チェックをする場合、原文と訳文の両方を読んでクロスチェックを行います。訳文だけを読んで引っかかる部分だけ原文に戻って確認するやり方をする校正方法もありますが、通常、翻訳チェックと言えば原文と訳文の両方を読みます。

 何度も言っていますが、翻訳の価値はまず「意味が分かること」です。読んでも意味が分からない文章は翻訳としての価値はありません。無地のTシャツよりプリントTシャツがいいよね〜、というようにデザインとしての文字としてなら「とにかく横文字になっていればいい」ということもあるかもしれませんが、翻訳の依頼が発生する場でそれはまずありません。翻訳を依頼する側は「意味を知りたくて」または「意味の伝わる文を作成して欲しくて」頼んでいるので、「意味分からなかったけどとりあえず適当に訳しました」という文章は、一旦消してイチから書き直しとなります。

 書いた人に下手に気を使ってその意味の分からない文を多少なりとも生かして(残して)訳文を作成してくれなどと言われた日には、かえって時間がかかることさえあります。

 プロの翻訳者が訳したものを別の翻訳者、あるいは翻訳チェッカーがチェックする場合は、基本的には「そのまま顧客に渡せるレベル」の翻訳をチェックするからこそ翻訳スピードの約2分の1から3分の1の時間でチェックできるのであって、「合っているかどうかも分からない、文法的な誤りも含まれているかもしれない、読んでも全く意味が分からない」文章に手に入れるぐらいなら、イチから訳した方がよっぽど早い、ということは少なくありません。

 他人の訳には難癖をつけたくなるだけではないのか、と言われることもありますし、実際そういうこともあります。訳文のスタイルには好みがあるので、いくら上手く訳せたと思って出しても編集者に思い切り手を入れられるということはプロの翻訳者でもあります。

 しかし、そういうレベルの校正や編集と、「そもそも意味を成していない奇怪な訳文もどきに手を入れる」ことには雲泥の差があります、ということは一度しっかり説明しておきたいと思いました。

翻訳者たちって、自分の仕事がなくなると困るから新人のやる気をそぐようなことを言ってるんじゃないの?

 全くの誤解です。仕事はいくらでもあります。きちんとした仕事をしてくれるのであれば、それこそ言っていただければ仕事先もご紹介できます。翻訳者の手が足りていない、この業界は慢性的な人手不足だ、などと言いますが、翻訳をやってみたい、翻訳者志望者は昔からたくさんいます。

 しかし、上でも述べた通り「ここ間違っているかもしれないので違っていたら直しておいてください」とか「ここ分かりませんでした」などと言うような学生アルバイト気分の人には後始末が大変なので仕事を出せないのです。

 ちゃんと訳してくれる人がいるなら訳して欲しい、翻訳待ちの資料や作品は世の中に膨大にあります。腕のいい翻訳者を確保できるなら、「あれも訳したいこれも訳したい」と思っているが、訳せる人がいないから市場に出てきていない、という仕事もおそらくたくさんあると思います。(企業内の独自用語や専門用語を社外の翻訳会社に発注して訳してもらうには機密上の問題があったり、そもそも専門的すぎて外部の人には訳せないこともありますが)

 仕事がなかなか来ない人から見ると決まった量のパイの食い合いで、仕事は早いもの勝ち、先にありつかないと取られてしまう、という世界のように感じるかもしれませんが、それも誤解だと思います

 仕事が来ない人はおそらくコスパが合わないからです。厳しい言い方になってしまいますが、払うお金以上の価値が感じられないから注文が発生しない、ということだと思います。これは市場原理です。(実力があるのに仕事と結びついていない人はマーケティング不足の可能性もあります。これについては後日別の投稿で話します)

 上手で料金も良心的な翻訳者のところには、毎日徹夜したとしても受けきれないくらいの注文がコロナ禍以降でも集中しています。私が知っている翻訳者の方も、例外なく毎日忙しいと言っています。これは自慢とかそういう話ではなく、単にコスパがいい商品はよく売れている、という単純な市場原理の話です。

 2019年から2020年にかけて大いに物議をかもし、このブログでもたびたび警告を発した悪徳翻訳講座の主宰者は受講生たちに対し、「ベテランの翻訳者たちは自分たちの仕事を奪われるのを恐れて翻訳は簡単ではない、と言っているだけだから気にしなくて良い」と指導していたようですがとんでもない誤解です。

 むしろ、断っても断っても「そこを何とかならないか、お願いだあなたしかいない」と泣きつかれて困っている、そんなことを言われてももうこれ以上は受け切れないから泣く泣く断っているが、もっと優秀な翻訳者が増えてくれればいいのに、と思っている翻訳者はたくさんいます。

 他にもたくさんの誤解がありますが、やはり一番に言えるのは繰り返しになりますが「翻訳は単なる言葉の置き換えではない」ということです。人間が原文を読んで考えて、自分の読書経験、職歴、人脈、人生経験のすべてをつぎ込んで訳しているのが翻訳です。翻訳者にモーションキャプチャーをつけて仕事ぶりを読み取ってAIに翻訳させることも、現段階ではまだできないでしょう。

 長くなってしまいましたが、翻訳者の仕事を少しでもイメージしていただけましたら幸いです。

2022年2月18日金曜日

翻訳料金は「ぼったくり」ではない―カスタマーリレーションという考え方

■翻訳料金は高い?

 「翻訳料金って(意外と)高いんですね」と言われたことのある翻訳者の方は結構多いのではないかと思います。見積りを出して欲しいと言われて出したら「えっ、結構するんですね」のような反応をされたことは、私も1度や2度ではありません。業界水準では私の単価は決して高い方ではないと思うのですが、翻訳サービスを使ったことのない人にとっては「紙1枚で〇千円もするの」「たったこれだけで△万円もするの」という顔をする方もいます(メールでのやりとりなので顔の表情は想像ですが)。

 翻訳の成果物はほとんどの場合がデータであり、食品や洋服や家具と違って「サービス」という無形の商品なので、価値が目に見えにくいところが特徴です。

 先日Twitterにも投稿したのですが、翻訳というサービスの料金には一般に以下の作業費が含まれていると考えられます。

・原文を正しく解釈するための「読み込み」作業

・内容を理解するために周辺情報を「調査する」作業

・原文を正しく伝えるために訳文を「書く」作業

・訳抜け、誤訳がないように訳出した文章を「推敲する」作業

 一般の人には上記の中でも後半の訳文を書く作業と推敲する作業しか思い浮かばないかもしれませんが、実は前半の「読み込み」と「調査」の方にこそ時間がかかっていることがほとんどです。

 翻訳とは、ある言語の文字を別の言語の文字に移し替えることではなく、原文の「内容」をもう一方の言語で読み手に伝わるように書くことだからです。

 翻訳とは

   × 文字⇒文字(変換)

  文字⇒内容理解⇒イメージ化⇒言語化

 このため、周辺調査が不十分で原文への理解が不十分なまま訳出すると、いまいち何を言っているか分からない、伝わりづらいピンボケした文章となります。

 ですからプロの翻訳者は、分かる訳文を書くためにまずは自分が原文を理解する努力をしています。

 こうしたプロセスを経て訳文が出来ていることは一般の人にはなかなか想像しづらいと思うので、「読んで訳すだけなのにどうしてそんなに時間がかかるの、どうしてそんなに高いの」と思われるかもしれないと思います。

 しかし、翻訳者は機械ではなく人間です。上から材料を入れたら下からジュースになって出てくるミキサーのような機械ではないので、訳は自動では出てきません。

 職人に作品を1点頼んだら「急ぎだから今日中に作って」とは言わないと思いますが、翻訳に関してはなぜか、原稿を読み終えたらその後すぐに訳出が始まり、訳し終えた文章が手から口からスラスラ出てくると思われがちなのですが、違います

 私たちは決して翻訳というスキルにあぐらをかいて翻訳料金をぼったくっているわけではないのです。鶴の恩返しの鶴のように、自分の羽根を1本ずつ抜きながら機織りをしていると言ったらオーバーですが、かなりのメンタルエナジーを費やして訳文を制作しています。

■そんなの知らんがな?!

 ただ、このように、顧客の目から見えづらい訳文制作の苦労の話をしても、「翻訳料金が妥当である」ことの主張としては弱いかもしれません。ですから、結婚式の見積りや引っ越しの見積りのように、「何にいくらかかっているから全体でこの値段なのか」という見積の内訳を細かく提示するのも、ひとつの顧客サービスと言えるかもしれません。

 たとえば、引っ越し屋さんに引っ越しを頼んだら10万円だと言われて高いなと感じたとします。ただ、それは梱包サービスも一切お任せするパターンの場合の話で、自分で梱包作業を行う場合だと6万円ですと言われたら、人によってはじゃあ梱包は自分でやりますと言う場合もあるでしょうし、いや、忙しいし大変だから梱包もやってくださいという場合もあると思います。

 この時に梱包ありの10万円だけを提示されたら「高いな」と思っても、梱包なしだと6万円だと分かった上で、あえて「それもやってもらいたいから」梱包ありの10万円の方を選んだとしたら、不思議と10万円は高く感じなくなると思います。

 これと同じように、この一連の翻訳作業には何が含まれているからこの値段なのかと、示すことで顧客の理解を得ることができ、顧客との信頼関係が深まるのではないかと思います。

翻訳料の見積内訳の例:

              単価    数量            価格        

・英日翻訳『(資料名)』    ◆円    〇〇ワード    △△円

・翻訳校正費                      ◆円    〇〇ワード    △△円(翻訳チェックを入れる場合)

・文書作成・レイアウト作業費   1式              △△円        

・特急料金(当日納品)              1式        △△円  

※「英日翻訳」には原文資料の周辺調査費も含みます。※価格には消費税は含まれません。

 特急料金の設定がある翻訳会社も最近少なくなりましたが、恐らくですが顧客に請求しづらいという現状があるからだと思います。

 しかし、急ぎの場合ならいくら、急がないならいくら、と値段を分けることで、急がない場合の料金を安く設定することもでき、顧客はその選択肢から選ぶことができるので、かえって顧客満足につながる可能性もあると思います。

 Amazonでもお急ぎ便は高いですが、通常配送なら少しお安くなりますと言われたら通常配送にする人もいるように、翻訳でも急ぎでない場合は少しお安くなります、というふうに納期で価格を分けるようにすれば「急ぐことは別料金」という認識がお互いの中に定着するのではないかと思います。そうすれば毎回毎回無茶な納期で疲弊することもないのではないか、と少し考えたりしています(最近そのように考え始めたところなので、納期による価格変動制はまだ実際には導入していません。今後の努力目標です)。

 これまで翻訳料金は「何にお金がかかってこの値段なのかが分からない」というブラックボックス的要素も大きかったのではないかと思います。料金体系を透明化することが、顧客満足―ひいてはカスタマーリレーション(顧客との良好な関係を維持するために行う体制づくりやそのための努力)という考え方につながっていくのではないか、と思います。

2022年2月15日火曜日

翻訳サービスが二極化していくなかで

 機械翻訳の導入が進み、翻訳サービスの価格の下落圧力が進むなか、我々職業翻訳者もこの仕事を続けていくにはなんとかしてこれで生計を立てていかなくてはならないので、色々なことを考えなければならない時期に来ていると思います。

 我々翻訳者の立場で言うと、骨の折れる仕事をしているのだからそれに見合った報酬が欲しいのですが、サービスを購入する顧客の立場で言うと、より安くサービスを提供して欲しい、そういう(企業)努力をして欲しい、つまり、より高い品質の翻訳をより安く買いたい、と考えるのは当然の欲求だと思います。

 すでに機械翻訳の導入が進んでそれがかなりマッチして機能し、機械翻訳の出力を人間が手直しするいわゆる「ポストエディット」(MTPE、Machine Translation Post-Editing)が上手くいって翻訳の「コスト削減」が進んでいる事例もかなりあると聞きます。

 一方で我々職業翻訳者は「翻訳はコストではない、信頼できる翻訳サービスを使うことで顧客が増えることもある。翻訳は投資だ」と考えます。これも間違いではなく、機械翻訳をろくに手直しもせず使って悲惨な結果になっている事例も山のように見聞きします。

 とはいえ、予算のない顧客が「出せる予算の中で最良の品質の翻訳サービスを購入したい」という場合、いくら良い翻訳でも高すぎれば頼めない、ということになります。

 そういう時、どうするのか。同じような品質を提供してくれる翻訳会社でもっと安いところはないかと必死に探すのだと思いますが、そんなに簡単には見つからないでしょう。翻訳会社も良い翻訳を提供するには良い翻訳者を確保しなければならず、良い翻訳者を確保するにはお金がかかるからです。

 顧客は何らかの形で妥協を迫られることになります。

 ■もしかしたらまともな翻訳が上がってこないかもしれないがとにかく安いところに賭けるような気持ちで一度頼んでみる。

 ■いつもの翻訳会社や翻訳者に頼む量を減らす(一部だけ頼んで他は社内で何とかする)。

 このどちらもできない場合は

 ■いつもの翻訳会社や翻訳者に「安くしてくれないか」と頼む。

 というパターンもあるかもしれません(断られると思いますが、何とかしてくれるところも中にはあるかもしれません。そういう時は影で翻訳者と翻訳会社の中の人が泣いています)。

 頼みたい翻訳の量は減らせなくて、予算もないという場合、顧客は仕方なく安い翻訳会社に流れるかもしれません。結果、とても満足だとは言えないにしろ、「まあまあこれぐらいならいいか」という程度の翻訳が得られたらまずまずの結果として、次からもそこを使い続けるかもしれません。予算と品質のせめぎ合いですが、最終的には予算的にも品質的にも一番妥協できるラインに収束していき、翻訳サービスを提供する側は徐々に二極化していきます。

 実際、この「二極化」はすでに進んでいると思います。

 機械翻訳の精度の向上とともに、コロナ禍の影響も手伝って翻訳業界に参入したい人たちが増え、安く働いてくれる人を大量に抱え込んで「短納期・低単価」で勝負する大手の翻訳会社も増えています。

 一方、短納期・低単価から脱却すべく、「うちにしかできない翻訳」を掲げて高品質で勝負する「ブティック型」翻訳会社(翻訳者)を貫くという路線でサービスを提供しているところもあります。

 「安いのが良ければそちらに行ってくださいな」「うちは高いですが品質は良いですよ」

この極端な二択から顧客は選択を迫られる事態となっています。

 「まあまあの品質でまあまあの価格で出してくれるところはないのか」

という要望に対しても、そこそこの値段でそこそこの品質のものを出すところも、あります。

 いずれにしても安ければ品質は悪いし、品質が良ければ高いしで、本当に顧客が欲しい

「安価で手に入る品質の高い翻訳サービス」は今のところ、入手困難というのが実情でしょう。

 翻訳は労働集約型産業なので、良い仕事を短時間で大量に行うことはできません。

 職人型の翻訳者が頭脳を使い、時間を使い、手間暇かけた成果物が「高品質翻訳」として高値で市場に出回っていきます。

 ここを何とかして品質を保ったままコストカットできないのか、と各方面の技術者や研究者が切り込もうとしますが、実際に翻訳作業を行う熟練翻訳者の利害と衝突するため、上手く行きません。

 翻訳者たちにも生活がかかっているので、1日の労働時間を何時間も奪われたうえ、わずかな報酬しかもらえない仕事からは逃げたいですし、将来的にもっと良い仕事をするために時間的にも金銭的にも余裕のある生活をしたいので、できるだけ十分な納期で高単価の仕事を獲得できるように各自が努力することになります。

 熟練した翻訳者が低単価で受注するのは業界のために良くない、とか、翻訳単価はいくら以上にしようなど、さまざまな工夫やアイデアが叫ばれますが、翻訳者が待遇改善を求めれば求めるほど、市場のニーズから遠ざかるというジレンマに陥ることになります。

 そこを改善しようとして機械翻訳の研究者や開発業者が翻訳者の皆さん使ってください、翻訳作業が楽になりますよなどと声をかけようものなら、機械翻訳の現状のひどさも理解している翻訳者たちからは嫌われることになります。機械翻訳の研究者や開発者たちも今こういったジレンマに陥っていて、先へ進まないのではないでしょうか。

 これからは、翻訳サービスが二極化していくのは、ある程度やむを得ないことだと私は思います。機械翻訳の導入をどんどん進めていける分野、それが可能な分野ではいくら抗っても、もうその流れは止められないと思います。そういう分野でこれまで仕事をしてきた人はそうやって出力される(つまり機械翻訳+非熟練の翻訳者たちによるPE)の結果を監督し、品質を保つようなポジションでやっていくか、いっそのこと全く別分野へと方向転換する必要に迫られていくでしょう。

 一方で、これだけはどうしても人間じゃないとダメだ、プレエディット(機械翻訳に入れるまえに主語述語をはっきりさせるなど機械が訳しやすく編集すること)やポストエディット(上で述べたように機械翻訳の出力を手直しする工程)ではどうにもならない、という分野も存在します。なくなりません。ただ、少なくなると思います。この少ない分野にフォーカスしていくのか、あるいは既存の翻訳対象文書や作品を「ここだけは人間に任せます」というふうに上手く切り分けていくことが可能になるのか。今後の流れに注目していく必要があると思います。

 ひとつ言えるのは、こうして翻訳サービスが二極化していくなかで、もはや、「誰にでもできる仕事」もっと言えば「機械でもできる仕事」しかできない人は淘汰されるか、短納期・低単価で搾取されることになっていくだろうと思います。

 私自身も例外ではないと思っています。日々の仕事に追われるだけだと、この変化についていけないのではないかと、焦る気持ちが頭のどこかにあります。

 だからこそ、1日のうち、仕事に使える時間を100%案件の受注に使ってしまわないで、いろいろな情報収集や活動、ブログ執筆や勉強など、「私にしかできない何か」ができる存在になるための努力を続けていきたいと考えています。

 翻訳者も、翻訳作業以外に「いろいろなことを考える」時間が今後ますます必要になってくるのではないか。私は今、そのように考えています。