2020年6月3日水曜日

TOEIC500点台で職業的翻訳者になれるのか

「翻訳者になるのに、高い英語力は必要ありません!」「TOEIC500点台でも翻訳者になれます」という謳い文句を掲げる浅野正憲氏の高額翻訳講座(詳しくは2/25のこちらの記事をご覧ください)が、いま業界内で非常に問題になっています。

以前の記事でも書きましたが、同講座の問題点は

経歴詐称指導 
集団でのトライアル分析 
英語力が高くなくても翻訳ができると宣伝
・年収一千万円も夢じゃないと宣伝

の4点だと私は思っています。
特に最初の「経歴詐称をするようにと受講生に指示/指導する」(Twitterに記録が残っています)「集団でトライアル分析を行っている」の2点は、NDA (non-disclosure agreement、秘密保持契約) 違反であるとともに違法行為であるとして、しかるべき監督機関へ通報する動きも出ています。

これらの動きは確実に進展していますから、いずれ行政指導が入れば同講座はこの2点に関しては停止し、「もうやっていません」と宣言する可能性もあります。

「もう本当にやっていないのか」の真偽を確かめるのが可能かどうかはさておき、仮にこの2つの問題は解決されたとします。

では残りの2点は問題ないと言えるでしょうか。

この記事では、TOEIC500点台で職業的翻訳者になれるのかについて考えます。

ちょっとたとえ話をしますがお付き合いください。

6月2日(火)のお昼のテレビ番組『バイキング』をたまたま見ていたところ、フォーダム大学に留学中の小室圭さんが学業に邁進している現在の状況が伝えられました。流暢な英語で金融の専門家に質問している音声が、大学のウェブサイトで公開されているそうです。

その件に関して詳細を説明していた国際弁護士の清原博さんが、司会の坂上忍さんに「清原さんは、英語はペラペラなんですよね?」と聞かれ、「私、英検は3級ですから」と答えた一幕があり、一瞬スタジオの空気が「えっ」という感じで凍り付きました。

清原弁護士はその後「ええ、もちろん英語は普通に話せますし、私はカンボジア語も話せますよ。日本語、英語、カンボジア語の3か国語はペラペラです」と答えて出演者と視聴者をホッとさせましたが、その時「英検3級」について突っ込む人は誰もいませんでした。

おそらく、清原弁護士は、(普通に現地で仕事できるだけの英語は話せますけど、それを証明しろと言われたら大昔に受けた英検3級くらいしかありませんよ)という意味で、半ば謙遜、半ば周囲をなごませるつもりでおっしゃったのだと思います。

ここまでの話で、「英検3級でも国際弁護士になれる」と思う人はいないと思います。「国際弁護士をしている人の中にも英語の資格は英検3級しか持っていない人はいる」という事実と、「英検3級でも国際弁護士になれる」とはイコールではありません。

「TOEIC500点台でも翻訳者になれる」という言葉の使い方は、この話とよく似ていると思いました。

「TOEIC500点台では翻訳者になれない」を客観的に主張しようとすると、いわゆる「悪魔の証明」(「ある事実・現象が『無い』ことを証明するのは非常に困難であること」)となってしまい、証明は非常に困難です。

一方、「TOEIC500点台でも翻訳者になった人はいる」という主張は、そういう人を一人でも見つけてこればいい訳ですから、簡単に証明できます。

翻訳者の中にTOEIC500点台の人は、おそらくいるだろうと私も思います。TOEICなんて大昔に一度受けたけど、何年前だったか分からない、その後、必要性もなくなって受けていないし、現在受けたら何点ぐらいなのか見当もつかない、という現役の実務翻訳者が存在するだろうということは否定できません。

しかし、そういう特殊な例でもって「TOEIC500点台でも翻訳者になれる」と宣伝してしまったら、大きな誤解を生みます。この言葉から伝わるメッセージは

「翻訳とは、TOEIC500点台程度の英語の読解力でもできるほど語学力が要求されない仕事である」

になるからです。そんなわけないですよね。あり得ませんよね。しかし、だからこそ、キャッチ―なコピーとなって見る人の心をとらえる訳です。

それを「実はあれは『過去にTOEIC500点台だった人の中にも翻訳者になった人がいる』という意味だった。本当にいるんだから嘘は言っていない」と言われたら、納得できますか?

まずは、この宣伝文句はそういう意味だったということを、お伝えしたくてこの例を挙げました。

話を戻します。では、「TOEICで換算すると500点台程度と考えられる英語読解力の持ち主が、仕事としての翻訳作業を安定的に受注できるか」と質問し直したらどうなるでしょうか。私は以下の4点を理由に、答えはNoであると考えます。

1. TOEIC500点台の英語力では複雑な構文が出てきた時に理解できない
2. どんなに簡単な内容の原文に見えても、実際の案件で「難しい文章が一文も出てこない」ことはまずない
3. 翻訳者が翻訳作業中、分からないことが出てきても、基本的に自分以外に聞ける人は誰もいない
4. 案件全体にわたってTOEIC500点台の人でも理解できる簡単な英語しか含まれていない案件であれば、機械翻訳にも翻訳が可能。そもそも案件として依頼自体が発生しない



1.TOEIC500点台の英語力では複雑な構文が出てきた時に理解できない

TOEICの公式ウェブサイトに Score Descriptor Table(レベル別評価の一覧表)が掲載されています。TOEICはご存じの通りリスニングセクションとリーディングセクションに分かれており、配点はちょうど半分ずつですから、TOEIC500点だとこの表ではリーディングセクションの「320~225」の得点層になると思います。この表によるとこの層は「よく使用される、規則に基づいた文法構造が理解できる。」ものの「難しい語彙、よく使用される単語の例外的な意味、または慣用句的な使い方が理解できない。似たような意味で使われる複数の単語は区別できないことが多い。」「より難しい、複雑な、またはあまり使用されない文法構造が理解できない。」とされています。

複雑な文法構造が出てきた時に、TOEIC500点台の人では原文を理解できないことがあります(もしかすると背景知識の助けを借りて奇跡的に解釈できることがあるのを否定はしません)。


2. どんなに簡単な内容の原文に見えても、実際の案件で「難しい文章が一文も出てこない」ことはまずない

この読解力ですと、実際の案件ではどんな難易度の英文が出てくるか分からないですから、翻訳案件の打診を受けた時、「翻訳対象の原文の全部を毎回隅々まで読んでからしか受注できるかどうか判断できない」ことになります。

毎回打診のたびに「自分の英語力でも読み切れるか、訳しきれるか」判断するために英語の全文を読んで「よし、これならできる」と確信してから受注するなら可能かもしれません。

しかし、私の翻訳者としての経験上、難しい文章が一文も出てこない案件は、まずありません。必ずどこかで頭を悩ませる、難しい文があります。本当は顧客はこの一文だけ訳して欲しくて翻訳会社に依頼したのだろうな、と思うこともあります。

まさに、上で述べた「悪魔の証明」です。「産業翻訳には、TOEIC500点台の英語力で訳せないような難しい内容は絶対に出てこない」と論理的に主張できますか?

3. 翻訳者が翻訳作業中、分からないことが出てきても、基本的に自分以外に聞ける人は誰もいない

業界のことを多少調べた人はすでにご存じかと思いますが、翻訳者と翻訳会社は、秘密保持契約を結んだ上で業務の受発注が発生します。翻訳する上で知り得た内容は第三者に一切漏らすことは許されません。したがって、分からないことが出てきても、知人にも、家族にも、ましてやネット上の質問サイトなどで質問することは一切許されません。(英語力の問題ではなく、社内の特殊なテクニカルタームや、原文にミスがある場合に翻訳会社経由でソースクライアントに質問できる場合はこの限りではありません)

自分自身の英語読解力、背景知識、調査能力以外に頼るものはありません。記憶が定かではありませんが、浅野氏の講座では「分からないことがあったら翻訳会社の人に聞けばいい」と指導していたように思いますが(どなたかのリツイートで見た気がします。ご存じの方、私のTwitterの方まで情報提供願います=>Twitterで情報提供いただきました。ありがとうございます。2019年の7月4日の浅野氏本人が『わからないことや不安なことがあれば素直に翻訳会社さんに伝えるのがよいかと思います』とツイートしています)、翻訳会社の人は教えてくれません。そんな暇ありませんし、はっきり言って「それが分かるならぐらいなら(それを説明しなきゃいけないなら)あなたに頼んでません」というのが本音だと思います。

原文が理解できなくて誰にも聞けなかったらどうするでしょうか。「あいまいな日本語で(もしくは適当なカタカナ用語でお茶を濁して)なんとか形にして逃げ切る」ぐらいが関の山ではないでしょうか。業界ではこれを「翻訳放棄」と呼ぶ人もいます。


4. 案件全体にわたってTOEIC500点台の人でも理解できる簡単な英語しか含まれていない案件であれば、機械翻訳にも翻訳が可能。そもそも案件として依頼自体が発生しない

1.の項目に戻ってTOEICのリーディングセクション「320~225」(TOEIC全体で500点台相当)の人の特徴をもう一度見てください。

・「よく使用される、規則に基づいた文法構造が理解できる。」
・「難しい語彙、よく使用される単語の例外的な意味、または慣用句的な使い方が理解できない。似たような意味で使われる複数の単語は区別できないことが多い。」
・「より難しい、複雑な、またはあまり使用されない文法構造が理解できない。」

お気づきでしょうか。これってそのまま機械翻訳の特徴に当てはまりませんか?みらい翻訳が「TOEIC800点相当の機械翻訳」と言われている時代です。わざわざ翻訳会社に発注して人間の翻訳者にお願いしなくても、機械翻訳で十分事足りるわけです。そうなるとそもそも案件として翻訳の依頼自体が発生しません。結果として、TOEIC500点台の人が翻訳できるレベルの文しか含まれていない文章は、翻訳の市場には出回らないということになります。

以上4点が、私が「TOEICで換算すると500点台程度と考えられる英語読解力の持ち主が、仕事としての翻訳作業を安定的に受注できるか」という問いに対し、「できません」と答える理由です。

ここまで「TOEIC500点台」を散々引き合いに出してきましたが、TOEIC500点台の人を否定する訳ではありませんし、現在500点台でも、しっかりと英語の勉強を続けて行けば、いずれ700~800点台に到達し、翻訳の仕事もしっかりとできる領域に到達する人もいると思います。ですから、例えばですが、言葉を以下のように言い換えればいいのではないでしょうか。

「TOEIC500点台の人も安心して学習できるように丁寧に指導します」
「TOEIC500点台からでも、しっかり勉強すれば翻訳者になれます」

こうした表現であれば誤解を招くこともないと思うのですが、いかがでしょうか。

最後に、「翻訳で年収一千万円稼げるのか」については、また別の機会に述べることにします。ただ、これも、さきほどの英検3級やTOEIC500点と同じ話です。

前回の記事で計算式を出したりして色々言いましたが、「翻訳者で年収一千万円稼ぐ人はいないとは言えない」というのが本当のところです。翻訳者の中には印税やプロジェクト契約で報酬を得る人もいますので、1千万円どころか2千万円プレーヤーもいることにはいます。ですから否定はしません。まあ、詳しくはまた今後、気が向いたら話します。

以上

2 件のコメント:

  1. 初めまして。こだまと申します。
    今回、ユカリ様の当ブログを拝見し、浅野氏の例の在宅翻訳者養成講座がほとんどインチキであることがよく分かりました。ありがとうございます。大金を失わずに助かりました。笑
    私は、過去に所属会社内などで、他にする人がいないという理由だけで英文の(英日、日英)翻訳を無理にさせられた経験があるだけですが、少し興味を持っておりました。
    未だに英語力にはあまり自信のない初老?の男ですが、ユカリ様のスタートガイドのサイトなども参照しつつ、英語力を高めて数年後には在宅翻訳者に成ることを目指すつもりです。ところで、ユカリ様のおすすめ本は全て読むつもりですが、他に私のような者に役立ちそうな英語と翻訳学習用の書籍やサイト、学校などご存知でしたら、お手数ですが少しご教示いただけませんでしょうか?
    今後とも、よろしくお願い致します。

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  2. こだまさん、コメントありがとうございます。
    社内で翻訳の仕事を任されて、それから興味をもっていらっしゃったということは、言葉を扱う仕事が結構楽しかったということではないでしょうか。

    翻訳者にはいろんな経歴の方がいらっしゃると思いますが、「最初は社内でやったから」という方も多いと思いますよ。

    私のサイト、参考にしてくださるのは嬉しいですが、サイトで紹介している本を全部お読みになる必要はないですよ。文法書など一部、選べるようにと内容が重複しているものもありますし。

    本はできればご自身で書店に出向いて、お好きなものを選ばれるといいと思います。レイアウトが気に入るとか、本にも相性がありますので。

    まずは翻訳業界のことをざっと知るために、「通訳翻訳ジャーナル」を買われてはいかがでしょうか。サイトでは、その通訳翻訳ジャーナルを発行しているイカロス出版が運営している「通訳翻訳web」(https://tsuhon.jp/)がお勧めです。

    そのサイトに、スクールリストも載っていますので参考になります。

    スクールは、ほとんどの学校が資料請求を受け付けていますし、通学講座なら体験入学もあります。そういうところに足を運ばれて、まずはどんなところなのか、体験されるといいと思います。

    あと、サイトには書いて載せてないのですが(今ちょっと情報サイトにログインできなくなってしまってて)、アメリカ在住の「ランサムはな」さんという方の、Youtube動画もオススメですのでぜひ検索してみてください。

    色々と情報が集められるといいですね!

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