2017年10月19日木曜日

敬体の中に出てくる常体

敬体と常体と言えばいわゆる「ですます調」と「である調」のことですが、和訳の際は訳文を作成するにあたってどちらにするかをまず決めます。

小説などで語り口が一人称(「僕はそう思った。」など)の場合、話している人物のキャラクターに合わせたトーンにする必要があるでしょうし、入門書などで何かを分かりやすく解説する場合には敬体、論文などではっきりと言い切りたい場合は常体など、場面に合わせて使い分けると思います。

翻訳でまず気をつけるのはこの敬体と常体を混ぜないということです。最初に決めたトーンで最後まで統一して訳していかないと、内容に反して文章全体がちぐはぐな印象になります。

ただし、特に仕様書やマニュアルなどで、(読み手向けに丁寧に)敬体で書き始められていても、次のような場合は突如途中で常体が出てくることがあります。

・箇条書き(日本語で言うと「~のこと」「~のようなとき」など)
・誰かの言葉の引用(特にその言葉に定訳がついているような場合)
・注意や警告

海外の英文を訳したであろうマニュアルなどを見ていると、よくこのような場合をみかけます。ここで無理して「すべてを敬体に揃えよう」として逆に一般的でない(それで読みづらい)流れになってしまうこともあります。

反対に、常体の中で急に最後だけ敬体になる場合もあります。
最後だけ読者に対してお礼を述べている時とか、誰か特定の人に対してメッセ―ジを発しているようなときです。そのようなときな無理して「~に対しても感謝の意を述べたい」などと訳すよりも「~さん、本当にありがとうございました」と訳したほうが自然である場合もあります。

普段からいろんな文章の英語とそれに対する和訳を眺めていると、「ああ、ここは混ざっていていいんだな」というのが感覚的につかめてくるようになると思います。

私は特に最初に挙げた例の「敬体の中に常体が混ざるパターン」になじめず無理して敬体で訳しておかしなことになる、という失敗をよくやりました。

「ここはこのように考えてここだけ常体にしました」ということがもし聞かれたら答えられる(聞かれませんが笑)ようにしておけば、時と場合に応じて混ざるパターンも有りだと思います。


0 件のコメント:

コメントを投稿